2011年6月9日木曜日

S君の訃報・・・

◇幼稚園から高校までずっと一緒だったS君の訃報が届いた。
・中学と高校の6年間はサッカー部の仲間でもあった。
・3年前に病に倒れ、闘病生活を送っていたが、昨年の夏、サッカー仲間と連れ立って見舞いに行ったときには、元気そうだったのに・・・。
◇同級生の死は、やっぱりキツイ!
・葬儀で読経が流れる中、40数年前のボールを追って走り回った姿を思い出して涙があふれた。

東日本大震災被災地へ



6/4(土)
三田市の自宅を出発。給油し一路東北へ出発。名神高速道路は、それなりの交通量でしたが、北陸自動車道に入るとのんびりムードに一変。
富山の小矢部川SAで昼食休憩の後、燃料タンクのランプがつくまで連続走行。
結局、新潟の黒崎PAで給油、52.6ℓ。ここまで624km。
磐越自動車道に入り、会津若松を経て、磐梯山を左手に見ながら郡山ジャンクションへ。東北自動車道の福島の国見SAで夕食後、宮城の古川ICを出て、予約のビジネスホテルへ到着したのが、21時すぎ。930kmのドライブでしたがほぼ順法走行だったので、14時間かかりました。やはり東北は遠い!と実感。
兵庫を出て、大阪、京都、滋賀、福井、石川、富山、新潟、福島、宮城と9県走破でした。


6/5(日)
津波で被災した陸前高田市の気仙中学校に行きました。
湾の一番奥に位置し、気仙川河口沿いのこの学校は、3階建ての屋上にまで津波に襲われ、校舎は建っているものの、裏手の体育館は土台を残すのみ。荒れ果てた校舎内は、そのときのままで言葉も出ません。しかし、適切な避難誘導によって一名の犠牲者も出なかったとか。普段の訓練と冷静な行動が功を奏したのでしょう。
川を隔てた対岸には、TV報道された“一本松”がありました。

そのあと、避難所となっている「正徳寺」を訪問。話をお聴きしました。
当初は100名程いたが今は高齢者中心に30名ほどになっている。体育館とは違い、畳の上で過ごせるのはありがたい。また、連日ボランティアが作業に入ってくれていて、作業場所や作業内容の連絡などの対応に追われているとのお話をお聴きしました。


大船渡市も同じような状況であることを移動の車中から見て取れました。しかし、海から数キロ離れたところでも川をさかのぼってきた津波がもたらした被害の大きさはとても信じられるものではありません。橋脚を壊し、鉄道の線路を剥いで、また流された車両の中には原形をとどめず車の好きな私も車種が特定できないものも多くありました。前夜、ホテル見たTVのニュースでは、600キロ離れた北海道の海岸に岩手の高校バレー部の校名入りのボールが流れ着き、送り返されたそのボールを「奇跡のボール」と名づけ、部活動を再開して試合に臨んだとありました。

週末からボランティアに入っている兵庫のメンバーを激励しました。
流された2500台の車両を集め、ナンバー広告して、所有者から申し出のあった分からナンバーをはずす作業をしていました。
一関市の山目小学校は、3/11の地震、その後の余震で一部の校舎にひび割れ、新築の体育館の壁面が崩れ落ちていました。「修復の予定だが、材料がはいらないとのことで応急処置のままです」との教頭さんの顔が心配そうでした。

6/6(月)
宮城県仙台市の東北朝鮮人学校を訪問しました。ここも余震を含む地震で校舎が傾くほどの被害を受けていました。撤去するにも巨額の費用がかかるなど対応に苦慮されています。現在は、寄宿舎等で授業を再開していますが、そこも土台が一部波打っているのを確認できました。
日朝友好兵庫県民の会のメンバーが送ってきた激励の寄せ書きの中によく知った方々の名前を発見し、それぞれがその関係の中で被災地への思いを実践されていることを知り、心温まるものを感じました。


帰路は、仙台空港から伊丹行きのチケットが取れて空港へ向かいました。
仙台空港内は、JALとANAの仮設のカウンターと、駅のキオスクのような小さな売店があるだけで、喫茶室も自販機さえもありません。待合ロビーのTVがニュースを流しているのが救いでした。

定刻に離陸した50人乗りの小型機は、当然飛行高度も高くなく、正味1時間のフライトは快適でした。大阪城が見えたとき、帰ってきたと正直ホッとしました。

報道だけではわからない現地の様子を肌で感じ、これまでとは違う自分の意識を認識しています。